真剣分析『私たちに「スーパー俺の曲カッコいいタイム」は必要か』

この記事はDTM Advent Calendar 2016の最初の記事です。

DTMer界隈、特にDTMer界隈とツイッタラー界隈――フォロワーが多く発言の影響力の大きい人たち――の積集合のような界隈を中心に「スーパー俺の曲カッコいいタイム」という言葉をよく見かけます。
Google検索の1ページ目を見てもその明確な定義はなさそうに見えますが、その言葉自体が誇るように「作曲しながらまたは作曲したあとに自分の作った楽曲に惚れ込むこと」のような意味をもって主にタイムライン上に蔓延っています。
 そしてそれは自分の経験上、作曲やその他のタスクと同じスレッド上で発動するため、「スーパー俺の曲カッコいいタイム」が発動しながら作曲を続けたりその他の創作的な活動が一時的にストップする傾向にあります。自分の経験内容としては次のようなものがあります:

 ・自分の作った曲で身体が動き出す。
 ・   〃   に合いそうな風景をGoogle画像検索で探し始める。
 ・   〃   を聴きながらテキストエディタにポエム(歌詞ではない←重要)を書き始める。
 ・   〃   を聴いて涙が出る。
 ・   〃   が再生されているディスプレイの動画を撮影してVineTwitter傘下の6秒動画投稿サービス)に投稿する。

このような言ってしまえば些かオ◯ニー的な行為がDTMerに必要なのか。「無駄な時間」と考えできるだけこうならないべきなのだろうか。この問は、初級者上級者を問わずDTMerなら必ず直面する悩みかと思われます。DTM Advent Calendar 2016一発目となる本エントリでは、この悩みを更に広く捉えてみたところの「自分で自分の曲を消費する行為は本当に必要か?」という問いにすげ替えつつ、昨今当たり前のように見られるようになったDTMerのVine投稿活動と一緒に考えてみることにしてみましょう。


 # 「渇いた」DTMerと「飲み干す」DTMer


私たちの創作の根底となる意識には自己実現や承認欲求をはじめ数多のトリガーが存在しますが、これらを一言でひっくるめた表現として「渇き」という状態を提示してみることにします。そしてそれらの意識(渇き)をトリガーに育まれた物語を天然水としましょう。自分の作った物語は、スランプ状態とかでない限りほぼほぼ百%自分にとって肯定的に受け入れられるものです。渇きに投じられた一滴の雫がそれを求める人々の目に輝いて見える、ような関係性をもって改めて自分の前に現れてくる。そうしたときにそれを「飲み干す」所作のゼロ年代DTMer的な言語化の結果が「スーパー俺の曲カッコいいタイム」だった。前の表現でいうところの「スーパー俺の渇き潤ってるタイム」と言い換えることができるでしょう。

 

 # 十年代のプリミティブなバイブス湧水源「Vine

 

「渇き」と「飲み」の関係に置き換えると、DTMerはスーパー俺の曲カッコいいタイムという表現の中に「渇いている」事実を内包していることに気づくわけですが、DTMerそれぞれのもつ質の異なった「渇き」「湧き水」を垣間見る場所として、6秒動画で人気のVineがあります。同じ6秒動画で、被写体はディスプレイでたいていはFL STUDIOが映っていて、BPMに合わせてブレがあるのがお決まりパターンで、違うのは音だけというなかで、人間が「渇き潤ってる」考えてみれば若干生々しい6秒を目の当たりにする。6秒で曲の良し悪しをはかることは難しく、コンテンツとしての価値をはかりかねる反面で、人間の営みとして極めてプリミティブな行動であるというところにその6秒を俯瞰することができるのではないでしょうか。

―ということで、総括してみると本エントリにおいては「スーパー俺の曲カッコいいタイム」は2つあって
 (1)内的欲求に対して育んだハンドメイド物語のセルフ消費活動
 (2)「渇き」という一次的な欲求に対するゼロ〜十年代DTMerのTwitter上での潤い報告ムーブメント
 として表象されるのでは?という回答でした。これを必要とするか、不要とするかは個人次第な気がしますが、今回考えたスーパー俺の曲カッコいいタイムというのは、どこかバイブスあり気なイキりワードで丁寧にカプセル化された実は人間の大切な営みであったという結論に落とし込むことができそうな気がしています。ここまで読んでいただきありがとうございました。(終)

 

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■12/02に記事を書いてくれる方を募集しています。誰もいなければ、12/03は「音楽ジャンルというプログラミング言語」という題で、また書こうかなと思っています。