音楽は麻薬じゃない、アフォーダンスだ

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DTM Advent Calendar 2016の15日目の記事です。
この記事はテクノポップdisではありませんのでどうかよろしくおねがいします。



クソ田舎でなにも変わっていかない幼少時代学生時代を生きてきたなかで、音楽はたったひとつのともだちでした。
 クラスメイトにいじめられてもアジカンのリライトを聴けば自分のシェルターを構築できたし、初音ミクという趣味の揚げ足を取られても――初音ミクが好きと言うだけでいじられる時代がありましたが――そのまま初音ミクに没頭していれば全くもって幸せでした。一〇年代を迎え、今思えば「運良く」地元の国立大学に落ちることで東京の私立大学に入ることができ、初めて地元と東京を行き来する生活が始まりました。程なくして卒業し就職した僕は更に運良く23区内に住まうことができました。
 クソ田舎を生きていた自分にとって、テクノポップは「仮想都市」でした。Perfumeのコンピューターシティを聴きながら近未来の人工少女との恋愛に想いを馳せ、livetuneさんのPanorama Futureでハイテクとネイチャーの融合したような理想テクノポリスの中を僕は駆けずり回って遊びました。僕がこのような、今思えば明らかに「傾いた」世界観を自分の中に構築したのは、他でもなく音楽を自分の想像力のリミッターを破壊するために用いたせいでした。そして現実世界で嫌なことがある度に、僕はイヤホンで世界の音を塞ぎ仮想近未来の部屋へと入っていきました。麻薬や覚せい剤の定義はWikipediaにあるので省きますがそのような使い方だったなと思っています。トーキョーという街に来て、そのことに少しずつ気づいてきたし、ヤバいなと思い始めています。ではどうすればいいか。僕は音楽にどう向き合えばいいのか。コンピューターシティが「麻薬」な世界で、どんな音楽が「未来」なのか。


 # 音楽はアフォーダンス


最近デザインに興味があってよく調べているのと、朝から晩まで23区にいる生活になじんだことで逆に田舎が恋しくなった節もあり、自然の大切さに気づきました。そしてその自然というのは植物的(ボタニカル)ということだけでなく「手が加わってないこと」「非物語的(=必然的)」のあざやかさに惹かれています。pureだったりnaturalだったりするモノコトを介した人と人とのコミュニケーションこそが最も優しいコミュニケーションなのではと。音楽も一緒で。どういうテクノポップがナチュラルなのか。非物語的なのか。きっとそれは現実から逃避するために頭脳につけるOculus Rift的ヴァーチャルリアリティではなく、リスナーの視界に装着してもらうGoogle Glass的インタフェースであるべきだと思うんですね。
 最後にアフォーダンスという言葉について。Oculus Riftが変える世界を「刺激」というふうに形容したところの、Google Glassが変える世界の「意味」であったり「価値」というように考えるわけです。そのメガネをとっかえるように音楽をシャッフルして。色セロファンで通して見たようにちょっとだけ世界が変わって。でも見えるものは変わってはいけない。歪めてはいけない。音楽は、世界をちょっとオイシくするための「手がかり」であるべきだと思うのです。そういう意味で、音楽は、麻薬じゃない、アフォーダンスだという一声で記事をしめたいと思います。