家系ラーメン、ラーメン二郎という「メタラーメン」と「物語消費」

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CPS Lab Advent Calendar 2016の17日目の記事どす



大塚英志さんは「定本 物語消費論」の中で、「商品そのものが消費されるのではない。それを通じて背後にある大きな物語(設定や世界観)が消費される」「しかし実際には大きな物語は売ることができないので、その断片である小さな物語を見せかけに消費させる」とし、その例として子供たちがビックリマンチョコレートのシールあつめに(チョコレートという使用価値ではなく)記号的な価値を見出したというふうに示しています。
 僕たちは「初めての二郎が神保町二郎だった」というと「大変だったね」とかいうし、「二郎の大を食べたことがある」というと「ワーオ」となります。それはラーメンを何百グラム食べたということよりもただ「二郎」というインタフェースを通したことにその説得力が結実しています。家系ラーメンやラーメン二郎は、ラーメンではなく物語なのです。そして、僕たちはラーメンを消費しているのとともに、「○○店の二郎のニンニクアブラヤサイマシマシを食べた」「武蔵家でゴハンを○回おかわりした」というふうにその背後にある家系や二郎というメタ的な物語消費を行っているのです。似たような飲食店に大盛りナポリタンのパンチョや、ゴーゴーカレー、伝説のすた丼などがありますが、これらも家系や二郎と同じく僕たちは暗黙的に何か商品価値以外の物語的なものを求めているのではないでしょうか。そして従来物語というものは頭にあざやかに残り、なかなか抜け出せないものです。ゆえに大学時代の僕は夢中で東京のラーメン店を駆けずり回って遊んだ、というわけです。


 # 物語から非物語へ


非物語的な食事として、外食しかできない状態の学生におすすめしたいのがお弁当と学食ですが、最も奨励するのは大学の至近に家を借りてメシのたびに自炊することです。最近、スーパーで売っている普通のつけ麺を食べるようになってから三田製麺所に行かなくなりました。キャベツと卵を加えても価格はお店で食べる1/3ぐらいにおさえられてスマートです。意図しない外食が増えて野菜が余った時は、思い切って全部ゆでて、ヤサイマシマシとか言いながらラーメンの具にしたりして、ラーメン二郎を思い出しながら食べたりしています。毎食外食するのであれば部屋を借りて自炊生活をするのとあまり月の消費額も変わらないのではないでしょうか?
 以上、家系ラーメン、ラーメン二郎というインタフェースは、その食品的、商品的な価値以上に、「完食」の物語を共有するコミュニケーションの場として一〇年代のフードジャンキーたちに受け入れられているのではないか、という仮説をお送りいたしました。



P.S.大学にキッチンを作ってくれ