クリエイティビティのジャイアニズム/CGMの受け手にあると良さげな「ツボのダイバーシティ」

ここにボーカロイドの樹というものがあると仮定します。クリエイターがこの樹にできる動作は「(樹高を)伸ばす」か「(新しい枝を)生やす」かのどちらかであるとすると、ryoさんのメルトやkzさんのpackagedは新しい枝を「生やした」、というか年輪の一番ど真ん中を形作りました。毎年wowakaさんやハチさんやDECOさんがその樹を「伸ばし」て、オワタPさんやアゴアニキPさん、ほぼ日Pさんたちは「枝を生やした」。そして2017年にこの樹を俯瞰すると、中心にズシンと芯の通った「ボカロ的」という概念と、そこから枝を分けるたくさんの「準ボカロ的」コンテキストがこんにちも豊かに実を作り続けているということだと思います。

 

もちろんナユタン星人さんはすごいし、ナブナさんもOrangestarさんもすごい、1年で何人か出て来る「20XX年のボカロP三銃士」みたいなのは、このボカロの樹の「年輪」となっていく人たちだと思っています。そしてここが僕のあまり好きじゃないところなのだけれど、ボカロ界隈は年輪「だけ」を心待ちにしているような節を感じます。錆び剥げていく僕達のコモンセンスをきちんと繋ぎとめてくれたのは「アンドロメダアンドロメダ」だったし「夜明けと蛍」のようなクリエイティビティだったのだけれど、ここではこのトップ曲群をある種のボカロ音楽のジャイアニズム的思想の結露と位置づけたいと思います。

 

ちなみに音楽的ジャイアニズムの権化は音ゲー界にあると思います。端的にいうと、速くすればいい、エモくすればいい。とにかくどれだけ肉汁のジュワっと出てコシの良いハンバーグを作れるかの競争がそこでは行われています。

 

僕もその実中高生ぐらいの頃は無心のなかで「ボカロの樹の年輪」になりたいと思って活動をしてきました。

 

でも、今は ジャイアニズム的な背比べから少し外れた場所にいたいんですよね。

リアル世界のアーティストでいうと、奥華子的であったり、くるり的であったり、やくしまるえつこ相対性理論)的であったり。

 

コンテキストが複雑になりすぎて、僕達にはもうナユタン星人さんとナブナさんとOrangestarさんぐらいしか共通のコンテキストがなくなっていく。そういったジャイアニズム的年輪の追加ではなく、何か「新たな枝」を生やすというか、横へのうまい具合のピボットができないかというところを模索しています。だから今はポストアゴアニキPであったりポストほぼ日Pみたいな人をガンガンプッシュしていって、横の広がりが見えないと、ボカロもどんどん一番美味しいハンバーグを作った人が勝ちの世界になってしまうという気がしています。勿論それはスポ根的で賑やかなコミュニティで良いのだけれど、受け手としても、ツボというか、ストライクゾーンのダイバーシティを拡張していくと良いのではないかな?という気がしています。あれだけゼロ年代にたくさんの表現が生まれたボカロ界隈ですから、一〇年代はそれがますます広がっていくということです。そういった時代に、一つの表現や尺度に執着することなく、日々多様な表現を受け入れるマインドがあると良さげな気がしています。

 

自分が昼の世界で佇んでいるソフトウェアエンジニアリングの世界でも、アプリケーション、インフラ、ネイティブ(アプリのこと)とかいろいろコンテキストがあって、それぞれに豊かなアプリケーションやら設計思想やらコミュニティやらが実っているわけで、ボカロ界隈の飽和しきった(UTAUもCeVIOもあるぞ)コンテキストをひっくるめて今年の再生数上位3人、みたいな情報量の低いまとめ方は面白みはなくなっていくかと思います。今日のところは以上です。